またまたやってきました。
在宅で働きたいっていう看護師さんへ、言いたいことを言わせてもらいます。
え?喧嘩腰?
いやー、だってね、在宅で働きたいって看護師さんの視野の狭さったらないもんね。
覚悟も、クソもないでしょ?
そもそも調べてもなければ、努力もしてないでしょ?
ぶっちゃけて。
こんな個人のやっている弱小ブログに入って、この記事を見ているほどに暇であることは事実。
そんな有名でもなんでもないブログですから。
だけど、
やっぱり在宅看護を武器に行ってくる人は嫌いです。
例外もいます
「自分の身はどうなってもいい。●な患者を助けたい。」
こういう思いを持っている方だけです。
ほとんどいませんけどね。
でしょ?ありえないもん。
大体、最後は在宅でって言って、在宅をやっているところに入っても、ターミナルになっていよいよってなったら、結局みんな病院に連れてくるじゃん?
あれって、医者も面倒を被りたくないですし、看護師だって責任を負いたくないし。
結局、そんなもんなんです。
「困ったら大きな病院に送ればいい。」
「〜なら、病院かな」
ホーンのチョッピリでもこんな気持ちを持っているなら、在宅は向いていない。
そういうところも含めて、
看護師も、医師も、家族も、本人も
全員が最後で死ねることを目指して成り立つわけです。
もしかしたら、
本人は本当にそれを望んでいるかもしれないけれど。
家族に最後を迎えるための教育ってされているんでしょうか?
家族とも言える、最愛の人とお別れするのに、家族に依存したイメージだけでOKな訳?
死が身近にある医療者であっても死生観に迷ったりするのに、人生で数回しか人の死に向き合っていない家族には、「死」について教えてあげているわけ?
どうせいないでしょ。
そこを考えてもなお、在宅看護って言っている人どれだけいるのかって話。
浅はかっていうのはまだまだあって。
もし、そういう医師も、看護師も、家族も、本人も出来上がったチームであったとしよう。
「死」を在宅で受け入れられるチームがいるとしよう。
まじで仮にね。
そんなチームはもうとっくに疲労しきっていて、存続すら危うくなっていることでしょう。
だって、日本の政治がそうなっているんだもの。
治療をやっていくためには資金、お金が必要。
そんなお金を回すサイクルってのは「今」の在宅の領域には全くない。
在宅に対して、そもそも政治家がいないんだもの。
政策はいくつかあって、それらを活用するとなると、結局「最後は大きな病院で送ればいい」になるしかないわけです。
え?制度を教えてくれ?
私がいうのは簡単ですが、そんなことも知らない人が在宅の道を考えていると思うと私から教えることは先ずありえないですね。
だから結局、在宅在宅って言っている人は
日本の政治から資金の運用の仕方を知らない
か
なにか大きなトラウマだかって、自分の身を考えず人に尽くしたい
か
理想だけ語って努力もしていない
か
病院って存在から背を向けたい
か
まぁ、ぶっちゃけこんなもんでしょう。
確かに、1秒でも生きて欲しい
1日でも生きて欲しい
そういう気持ちを持つことはよく分かるし、そういう人を助けたいと思う。
一緒に過ごせるときを気持ちよく過ごせるよう、
その人らしく生きれるよう、
関わってあげられたらって思うよ、そりゃ。
で、それは在宅でないとできないことなの?って言ったらそうじゃないと思うわけです。
最後を迎えようとしている家族、本人の気持ちを踏みにじらないような信頼関係が築けていることが大前提。
その信頼関係を持っていながら、その人にとってを考えるのがプロ。
で、「死」と向き合うのにどれだけ覚悟があるのかって話ですよ。
是非とも、それでも思う在宅の魅力ってのを語って欲しいです。
正直、私はめちゃくちゃ
興味あるんですよ。在宅って。
でも人を救うためには、自分の生活を救う必要があって。
自分の生活を成立させるためには給料が入ります。
私が幸せであって初めて人を幸せにできるよう手伝いができると思うんですよね。
最低限をクリアさせるための条件は、今の在宅にないって思うわけです。
そこんところどうでしょうか。
それとも、疾患を、人を断定して売り上げを伸ばします?
それならそういうやり方もありですが、「人」にとって在宅でっていう考えとも違いますよね。
在宅に行きたいっていう人、
在宅看護がっていう人、
そういう人をみると羨ましくなる反面、怒れたりもする。
もっともっと本気で考えて欲しい。
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